あの人

私の心は単純だ。

ホワイトデーに貰ったリボンの髪飾りを着けるだけで、うきうきして、その人が選んでいる様子を想像してニヤニヤしたりする。

なぜこうも、都合の良い記憶ばかりが残るのだろうか。

約束していた日をすっぽかされたことより、海水浴の帰りに「もっと綺麗な海を見せたかった」と言われたことや、「合コン行くくらいなら俺ともっと遊んでよ」と言われたことを思い出すのか。

一度は、もう二度と会わなくても平気だと心の底から思ったのに、今はまた会いたいと思うのか。

学歴が良いわけでもない、立派な仕事をしているわけでもない、真面目で真っ直ぐな人間でもないのに、なぜこうも惹かれ続けているのか。

確かに、顔は良い。これ以上顔がタイプな男とは出会わないであろうと思う程、顔が好きだ。

それだけだと思っていたが、最近は、なんとなくの感覚だが、あの人の持つ独特の雰囲気が好きなのかもしれない。

少し人とずれていて、それを全く気にしていない。

その姿に、私は憧れているのかもしれない。

音楽

新しい取り組みは、ドキドキする。ワクワクする。

結局、長く触れてきたものしか続かない。

私は、音楽が好きだと、最近ようやく気が付いた。

演奏することも、聞くことも、全部好きだ。

今までは、音楽のほんの一部を全てだと思っていた。

でも、もっと広かった。

音楽ジャンル

演奏スタイル

歴史

細かい部分を見ると、そこには知らない世界が広がっていて

同じ音楽だけど、全く違う。

それがまた面白くて。

正しさなんてない、ただ楽しめばいい。

音楽の言葉の意味を知る。

音を楽しんでいるんだと。

綺麗に演奏するとか、楽譜通りに演奏するとか、それよりもっと大切なものに触れているなと、最近は感じている。

ひとり

ひとりの時間は楽しい。

好きな時間に起きて、好きなように予定を立て、好きな時間に寝ることができる。

ずっとひとりでいたほうが楽しいのではないかと思う。

でも、ふとした瞬間に、誰かと一緒に歩む人生を愛おしく思う。

「人は、ひとりでは生きられないよ。」と、ついこの間言われた言葉が頭から離れない。

どうしたらいいのか。

周りを気にして、孤独を恐れて、ひとりから逃げることはしなさそうだ。

だとしたら、私はこの先もひとりで暮らしていくのだろうか。

受け容れる準備はできているけれど、なんだか、まだ違う。

もう少し、ひとりな気がする。

頭の中で意見がごちゃごちゃになっていて、

寂しさを埋める恋愛なんてくだらない

そしたらあなたは永遠にひとりだ

それも違う気がする

なら、どうするの?

と。

終わりのない意見のぶつけあいが続いている。

もう分からないねー。

いつか、私の生き方はこれだと、語れる日が来るのだろうか。

もしかしたら、来ないかもしれない。

人生の方向性は、偶然とほんの少しの意志で決まると思っている。

どれだけ意志が強くても、偶然の力には叶わない。

それを運命と言うのだろうか。

運命という言葉はあまり好きではないけれど、それがあるのも事実で、

だから、ずっと前から分かってました、決めてました、私の人生は全て自分で切り拓きましたなんて、私は言えなさそう。

この要請と存在することの意味は、人により、また瞬間ごとに変化する。したがって、生きる意味を一般論で語ることはできないし、この意味への問いに一般論で答えることもできない。ここにいう生きることとはけっして漠然としたなにかではなく、つねに具体的なににかであって、したがって生きることがわたしたちに向けてから要請も、とことん具体的である。この具体性が、ひとりひとりにたったの一度、他に類を見ない人それぞれの運命をもたらすのだ。だれも、そしてどんな運命も比類ない。どんな状況も二度と繰り返されない。そしてそれぞれの状況ごとに、人間は異なる対応を迫られる。具体的な状況は、あるときは運命をみずから進んで切り拓くことを求め、あるときは人生を味わいながら真価を発揮する機会をあたえ、またあるときは淡々と運命に甘んじることを求める。だがすべての状況はたったの一度、ふたつとないしかたで現像するのであり、そのたびに問いにたいするたったひとつの、ふたつとない正しい「答え」だけを受け入れる。そしてその答えは、具体的な状況にすでに用意されているのだ。

 

続く

生きる意味を問う

ここで必要なのは、生きる意味についての問いを百八十度方向転換することだ。わたしたちが生きることから何を期待するかではなく、むしろひたすら、生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ、ということを学び、絶望している人間に伝えねばならない。哲学用語を使えば、コペルニクス的転回が必要なのであり、もういいかげん、生きることの意味を問うことをやめ、私たち自身が問いの前に立っていることを思い知るべきなのだ。生きることは日々、そして時々刻々、問いかけてくる。わたしたちはその問いに答えを迫られている。考えこんだり言辞を弄することによってではなく、ひとえに行動によって、適切な態度によって、正しい答えは出される。生きるとはつまり、生きることの問いに正しく答える義務、生きることが各人に課す課題を果たす義務、時々刻々の要請を満たす義務を引き受けることにほかならない。

夜と霧より

 

続く。

心打たれる瞬間

人が何に心を打たれるのか、

ただ美しいだけではない、

そこに映る人間らしさを感じた時、心打たれるのだなと。

人が、限界を超えて何かを表現しようとする時、美しいと感じる。

それは、どう見られたいとかの欲望を全部捨てるほど、忘れてしまうほど、目の前の対象に没頭して、言い方は悪いが、狂っている時に現れる。

この言葉が正しいのかは分からないけれど、そこに私は人間らしさを感じ、真の美しさを見たと心打たれる。