距離を置いたけれど

距離を置いて別の仕事をしてみた。

別の仕事をしたら本業の捉え方が変わるかもしれないと思った。

しかしそう簡単にはいかない。

締め切りに追い詰められ、ただただ拘束時間が増えていく。

別の居場所があるから、と精神的安定は得られなかった。

確かに、考えすぎてしまうことは減った。目の前のことをただひたすらこなす日々に変化した。

だが、果たして私が求めているのはこれなのだろうか?

機械のようにこなせば良いのだろうか?

いや、そうではなくて

日常の小さな変化や気づきを丁寧に拾い集めて、笑顔で余裕ある日々が送りたいのではないか。

こちらの方向ではないみたい。

 

足りないところを埋めるのではなく、余白を楽しむ日々を送りたい。足りないところは足りないままでいい。

足りないままで、上手くいかない部分をどう捉えていけばいいのだろう。

まだまだ先は長そう。

距離を置く

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仕事をしていると、もっとこうすればいいのに、どうして上手くいかないんだろう。と、意味もなく考えてしまう。

自分のことを棚に上げて、人の粗探しをしてしまう。

人の粗探しをする行為は結局、自分の弱さを正当化しようとしているんだと思うと更に苦しくなる。

このまま考え続けては、必ず良くない方向に考えが進んでしまう。

今の考え癖は良くない。

だから距離を置こうと考えた。

自分との距離を。

居場所を変えてみる。

働きながら、別の仕事をしてみる。

慣れてきて、惰性で仕事をしているのかもしれない。

一旦外の空気を吸おう。

変えることで、見え方が変わる。

上手くいかないのなら一旦自分の良くない思考と距離を置く手段を取ってみよう。

と。

上手くないなりに

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私の家族は、ちょっと変だ。

気持ちの表現が下手だ。私も含めて。

思っていることを伝える行為をあまりしない。

もどかしい。何だこのぎこちない感じ。と思う。

言いたいことはきっとあるのに、言わない。

言ったら、理解が深まるかもしれないのに、楽なのに。今までやってこなかったから、今更違うことをするのは難しい。

何かを言いたそうな雰囲気だけを感じとって終わってしまう。

 

表現が下手だから、お金など目に見えるモノで表現することが多い。

あの人達にとっての気持ちは「モノ」に込められている。

フフッと笑ってしまう。可愛いなあと、

モノは充分すぎるくらい貰った。本当に欲しいのは言葉なのに。と寂しさを感じる時もある。

でも最近少しずつ分かってきた。あの人達から貰うモノは言葉であり、気持ちなんだと。

きっと伝えたいことは沢山あるんだろう。それをなかなか言い出せないんだろう。

もどかしいけれど、もどかしさも含めて面白くて、可愛い。

そんな風に思っている。

 

そんな家庭で育ったので、私も気持ちの表現は上手くない。

上手くないから、すれ違い、疎遠になり、もどかしさを感じることが沢山あった。

言ったら相手に何を思われるのか、怖かった。自分を守るのに必死だった。

でも、いざ勇気を振り絞って言ってみると、案外みんな優しく聞いてくれる。思いがけない方向に進んだり、仲が深まったりする。

だから私は、上手くないなりに伝えるようにしている。

伝えようとするだけでもいいじゃない、と。

上手く伝えなくてもいい。完璧じゃなくても良い。

そうやって伝えていきたいな。家族にも。

どうせ溢れてしまう

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好きが溢れているなと気がつく。

そんなつもりはなくても、自然と溢れてしまうらしい。

その事実を知ると、少し恥ずかしくなる。隠したくなる。

そうやって今まで隠していたつもりでいたけど、果たして隠しきれていたのだろうか?

もしかすると、いや多分これは確実に、隠そうとしても隠しきれなくて、溢れ出ていた気がする。

溢れ出ていることも、私が隠そうとしていたことも、全てお見通しだったのかも知れない。

恥ずかしいな。

もう隠すのはやめよう。どうせ溢れてしまうんだから。

好きが溢れ出てしまう事実を、隠すことなく、アピールする訳でもなく、事実とともに生きていく。ただそれだけで良いのかもしれない。

宅配ピザから得た、不遇な時期の過ごし方

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宅配ピザを頼んだ。

今日は寒かった。

仕事を終え、帰る前に宅配ピザを注文。

寒い中、配達員の方には申し訳ない!と思ったが、ピザの誘惑に負けた。

というか、ピザが食べたかった。

 

だが、金曜の夜ということもあってなかなか届かない。

ピザ屋のWebサイトで進捗状況を見ては、まだか。まだか。とイライラしてしまう。

スマホ片手にサイトの更新ボタンを何度も押し、気づけば15分が過ぎていた。

イライラが止まらない。

ふと、明日の弁当はどうしようかと考える。

朝起きてから作るよりも、今作ってしまえば楽だと気がつき、キッチンへ向かう。

弁当を作り終え、お湯を沸かす。

すると、ピンポーンと呼び鈴が鳴った。

ピザが届いた。

ああ、こういうことかと気がつく。

 

ピザが届かない事実は変わらない。私がいくらイライラしたからと言ってピザが早く届くわけでは無い。

ピザが届かない状況に対して、私がイライラするという選択肢を選んでいるだけなんだと。

外的要因に私がどう反応するか、どんな感情を抱くか、どんな行動をするかは自分で選べるんだった、と。

だったら、ピザが届かない時間を使って弁当を作るという行動も自分で選ぶことができる。

どうせ上手く行っていないのなら、一旦離れて別のことをして仕舞えばいい。

敢えて上手くいかないことに全力を尽くす必要はない。

 

連絡が来なくて不安ならばそこから一旦離れて仕舞えばいい。不安の感情も自分が選んでいるだけだから。

連絡が来ない事実は仕方がない、その状況は自分ではどうしようも出来ない。変えられない。

でも、その先の行動は好きなように選べる。自分が選ぼうとするならば。他の選択肢があることに気づけるのならば。

振り返り

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忘れていた。

今の生活が昔から続いていた訳ではなかったと。そういえば、辛い時期もあったなーと。

人のことを好きになった。会いたいし、大切にしたいし、もっと仲良くなりたかった。でもそれが出来なかったこと。

上手くいかない時期に、家族から「そんな中途半端なことを繰り返してどうするんだ。家に帰って来い。」と言われた。それでも私は一人で暮らしていきたいと思ったこと。

仕事へ行くと頭が痛くなって、動けなくなって毎日苦しかった。笑顔で溢れていて、自分も周りも自然体でいられて楽しい世界をつくりたいと毎日思っていたこと。

一人でいることに孤独を感じていても、強がって大丈夫なふりをしていた。でも本当は、人と一緒に仕事をしたいし、誰かと一緒に生きていきたいと思っていたこと。

思い出せば思い出すほど、苦しくなる。

だけどこの苦しい時、助けてくれた人がいる。助けてくれた場所がある。それを大切にしていきたい。守っていきたい。

 

そして今、あの辛かった頃を思い出すと、乗り越えていたんだと気づく。知らないうちに乗り越えていたみたいだ。

最近は、離れていたものが再び近づいてきているなと感じる。

よく分からないけど、1つのものを前とは違う視点で、新しい視点で見ているような。

新鮮。そして楽しい。

前よりも、自分なりの見方をプラスしたような感じ。

他人の目なんてどうでも良くて、自分が好きだから好きなんだ。それでいいんだ。と心の底から思えるようになっている。

少しずつ。

違和感。現状維持

成長、生産性を上げる、上を目指す

このあたりに違和感を覚えている。

現状維持でいいじゃん、と。

成長しようぜ!どんどん新しいことしようぜ!が、自分には合わないんだろう。

自分が心地よい空間で、嫌なことを極力減らして、現状維持の生活が好きだ。

ただ、維持をしていると時に壊したくなる時がある。

もしかすると、それが成長なのかもしれない。

でもそれは前に進むためのものではなくて、ただ壊したいから壊す。やりたいからやる。そんな感覚。

自身の成長のためにこれをやります!

これをやると収入が上がりそうなのでやります!

とかではなく。

現状維持をしてみたけど、壊したくなったから壊してみた。そしたら案外楽しくて、気がついたらこんなことしてましたー。

の方が好きだなあ。

言葉の表現の違いだろうけれど、違和感は見逃さないようにしたい。