縁を切ろうか

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大学時代の友人が、鬱病になった。

学生時代から一人で生計を立て、働くのが好きな子だった。

本当によく働いていた。

でも、1年前、仕事が上手くいかなくて、限界がきて、ある日を境に仕事へ行けなくなった。

本人も、仕事ができると思っていたし、本当にできる人だったので、事実を受け止めきれず、もがき苦しんでいるのはよく分かった。

 

分かる。辛いのは分かる。上手くいかないのも分かる。

分かってあげたい、理解できるならしたい。

でも、私が出来ることには限界がある。

近づけば近づくほど、違和感が増える。

コロナの陰謀諭を信じたり、明らかに人間性を疑う友人と「縁を切る」と言いつつダラダラと悩んでいたり。

あーよく分からない。

縁を切ろうか

ふと、そう思った。

 

 

日記を読み返していると、友人と遊んだ日の記録があった。

“今日は〇〇と遊んだ。久しぶりにたくさん笑った。話をすると心の底から笑える。楽しい。大切にしたい友達。”

と書いてあった。

本当は、大好きなのに。

学生時代、なんども彼女に救われたのに。

彼女の姿に憧れていたのに。

私の中の彼女のイメージと今が違いすぎて、適応できていないのか。

そうだろうなあ。

縁を切らなくてもいいから、ちょっと距離を置こう。

全てやってあげようとか、理解してあげようとか、そんなことする必要はない。

その子の人生だから。私の人生ではないから。

でも、やっぱり大切な人だから、見捨てはしないから、私が今できることを、できる限りやろう。

救ってあげたい、感謝されたい、そうではなくて、

単純に自分がやりたいからやる。

どうするかは彼女次第。判断までは介入しない。

それだけ。

その方が私には合っていそう。

合う、合わない

合う部分と合わない部分、どちらもあるけれど、敢えて合わない部分をその人と自分の相性と考えてしまうのは勿体ない。
「どちらを見たいですか?」と言われたときに、私はその人の「いいな・合うな」と思うところを見たい。


合わない部分は、自分とは合わない。でも、それもその人の一部なんだな。くらいでよくて。

自分にとって「都合の悪い・合わない」部分は、程よく距離を置いて定型の対応方法を考えておけば良いだけなんだと思う。


この人のここが気に入らないんだよ!ここが嫌なんだよ!と、怒ったりイライラしたりするのがあまり好きではない。したくない。
友人のちょっとしたときに出る、「どうしよう・・・」とか、ちょっと粘着感のある思考回路は私にはよく分からない。
でも私は彼女のことが好きで、一緒にいると楽しいので今後も遊ぶだろう。

2020.12.31

時期

最近は、あまり書いたり考えたりしていない。
この人になりたいなあすごいなあと思ったり
ピアノを弾いたりしている
記録するってなんだろうと思ったりもする。
そういう時期らしい。
書きたいことを書こうかな。好きなように。

一時期は本を読んで考えることが多かったけれど、最近はピアノを弾いてアウトプット(なのか?)することが多い。

要するにあまり考えていない。
それもそれで怖くて。
考える自分も捨てたくなくて。
でも表現に没頭する自分も好きで。
バランスを取ってどっちでもない自分で居続けているらしい。


あ、でも、今はそういう時期なだけだから、またどうせ考えたくなる時期がきたら思いきり考えればいいのかも。
今は表現に没頭する時期だから、変にバランス取ろうとせずに没頭しきればいいのかもしれない。
そっちの方が楽しい。
今やりたいことに全精力を使ってしまおう。

2020.12.24

なんでもない日々

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欲望のままに生き続けた先には、また新たな欲望があって、終わりがない。

ならいっそ、追い求めることを辞めればいい。

何も無い今を、何かで埋めようとせず、ただ生きてみよう。

その先には何があるんだろうか?と、漠然と考えながら過ごしていた。

目的の無い毎日が、ただ過ぎていく。

なんだろうか、明確なテーマのない、平凡過ぎる、刺激の無い、側から見たらつまらない日々だった。

 

こんな人生でいいのか?

若いうちにしか出来ないことがある筈

何かやらないと

そう思った。

 

だが結局、今までと同じことが繰り返されるだけだろう。

きっと人生は、同じような日々の繰り返しだ。

それをどう変えるか?ではなくて、

同じような日々であること、自分は平凡な人間だという事実を受け入れる。

なんでもない日々を、平凡な人間なりに生きていく。

なんでもない日々が試練であると言われるのは、このことだろう。

言葉

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見たもの、感じたことを言葉に表現するのが苦手だ。

映画のあらすじや感想を伝えようとしても、「とにかくよかったから観て!」としか伝えられない。

観てほしい気持ちはあるが、分かってもらえるように説明したい欲求があまりない。

確かに、理解されないもどかしさはある。

でも、もどかしさより、分かってほしい気持ちが勝つことは無い。

別に分かってもらえなくてもいいか。自分だけが知っていればいい、と。

もしかしたら、他人に分かってほしいことは説明できるのかもしれない。

自分が説明できないことは、そこまで理解されたくないことなのかもしれない。

自分の中だけに留めておきたいのかもしれない。

美しい音楽を聴いた時、「ここの部分がここと融合して美しくてね・・・」なんて語るのは、美しさを損なわせる。

美しさは、観た人聴いた人だけが感じていればいい。わざわざ言葉にしなくてもいい。

そっちの方がむしろ、神秘的で、美しくて、魅力的だと私は思う。

 

 

アダム・スミスへの思い込み

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最近、この本を読んでいる。

アダム・スミスと言えば、「国富論

資本主義や経済を知りたいのなら、この人に辿り着く。

きっと、幸せになるためには、沢山の富を得て、金持ちになって、経済を回すことが必要だ!と。

そんな考えの人なんだろうな。と思っていた。

結論から言うと、正反対の思考の人だった。

むしろ、

幸福は平静と享楽にある。

健康で、負債がなく、良心にやましいところがない人に対して何をつけ加えることができようか。

この境遇にある人に対しては、財産のそれ以上の増加はすべて余計なものだというべきだろう。

 「道徳感情論」より

 と言っている。

ちなみに「国富論」は、スミスにとっての終着点ではなかったみたい。

彼は、正義・生活行政・公収入・軍費、これらの原理を全てまとめて、人間を豊かに・人間同士をつなげる"万民の法"を作りたかった。

その第一歩として、"万民の富"の原理を記したのが「国富論」だった。

 

国富論」だけがアダム・スミスではなくて、それは彼のほんの一部に過ぎなかった。と気付いた時、思い込みの恐ろしさを痛感した。

世の中には自分の知らないことが幾つもあるのに、簡単にそのことを忘れてしまう。知らないうちに自分の都合の良いように物事を解釈して、都合の良い情報だけを集めて、自分は何でも知っているかのように思い込んでしまう。

根拠のない思い込みは、なぜか自信を持って語ってしまう。

知らないほうが、偉そうにしていられる。

もしかしたら、知らない幸せもあるかもしれない。でも私は、多少険しい道のりでも、知る幸せのほうが好きだ。

何より、無知による思い込みや勘違い、批判や否定は避けたい。

と、改めて感じている最近でした。

 

 

 

勘違い

勘違いしていた。

ずっと、振り回されて、いつも自分ばかり考えてしまう。と思っていた。

でも実は、振り回していたのは私の方だった。

何故それでも愛想を尽かさないのか。

私とは根本的な考え方が違うんだろう。だから私はずっと、振り回されていると思い込んでいたんだろう。

きっと相手には振り回しているつもりも、振り回されているつもりもなくて、全く違う視点から見ていたんだろうと感じる。

その視点は、上手く言えないけれど、なんとなくの感覚なら分かってきた。

 

違いを、自分の価値観と照らし合わせるから分からなくなる。理解できないと悩む。

そんなことする必要はなくて、ただ相手を見るだけで、自分の思いを伝えるだけでいい。

別に理解されなくていい。理解しなくてもいい。分からないものは分からないままで、でも少しずつ、分からないものとうまく付き合える距離感を図っていけばいい。